2015/07/02

今までやった仕事を適当に紹介する 中篇

(続き)



(日雇いと派遣社員時代)

倉庫でペットボトル梱包 (2回) - 短期ヘルプスタッフ(派遣-某信販会社入る前)
牛角 (数10回) - 短期ヘルプスタッフの会社
居酒屋  月の雫 (数10回) - 短期ヘルプスタッフの会社
和食 おはち  (3ヶ月) - 短期ヘルプスタッフの会社

夜は短期ヘルプスタッフの会社をやりながら、
  某信販会社 (約10か月) - 派遣社員

宝石営業をボロボロの精神で辞めてから、相当自分に自信が無くなってた。
(この先 自分が社会人として通用するのかと疑問を持つほど打ちのめされた。)

仕事をしてなかったから、家賃と食費でお金も無くなって行ったし、預金がゼロになるまでそんなに時間はかからなかった。
だいたいひと月半くらい、新たに仕事始めざるを得ない状況になった。

タウンワークかなんかで適当に決めた信販会社の派遣社員で仕事を始めた。
面接の内容は、派遣だったから大した面接ではなかったけど、キーボード入力、質問の受け答えをその場でさせられた。
年齢的には当時は20前半だったけど、「将来の夢は?結婚願望は?」とか聞かれたが、この時の自分はどん底だったので「結婚願望無いし、夢もないです。」との答えしか返さなかった。それにも関わらず雇ってくれたんだが。

派遣だったから定時で上がれるので、日中その仕事が終わった夜、飲食の短期ヘルプスタッフを掛け持ちで色々回った。週末もそのヘルプの仕事を入れた。
この頃は誰とも会いたくないから、何も考えずに毎日自分の自由な時間を埋めるように仕事した。
宝石営業辞めてからスッカラカンになった預金口座に余裕ができるまでは掛け持ちを続けた。

信販会社は派遣社員で入っていたけど、成績は東日本エリアで3四半期連続トップを取るぐらい頑張った。


すると、派遣で入って半年後ぐらいで信販会社から正社員を勧める話が来た
けど、このタイミングで自分の将来決めるのはまだ早いと、お誘いの話は断った。

あくまで食いつなぎでやっていることは認識しながらやってた。
でもボロボロにされた後だったから、「誰かに必要とされること」ってやっぱりうれしかったな。
ここの仕事はすぐに余裕ができた。
宝石営業で痛い思いをしたし、あんな辛い経験は後にも先も無かった。

毎日生活していく上で、とりわけ充実はしてなかったけど、ひたすら自分にもできる仕事に打ち込むことが、何にも考えないで楽だった。
パソコンに入力することと、癖のないトークをひたすら続けること、社員に対して適当に愛想良くして仕事捌くこと。
もう少し落ち着いてから真剣に自分の将来考えるつもりでいた。

宝石営業の時は、気の緩む暇のない程の時間を過ごしてた。
毎日神経すり減らして売上のこと、営業のこと、上司に気に入られること、客に気を使うこと、ひん曲がった学生気分の自分を変えること、そういったことに順応するのに必死だった。
でもこの信販会社はどうだろう。
電話かけるだけでも以前の5分の1の量をやっていれば、きっと「仕事していること」になるんだろう。
ある程度仕事が慣れると自分より出来ない社員が目についてしまう。
寝ている奴、ランチ休憩が長い奴、喫煙所に行く回数が多い奴、キーボードの入力が遅い奴、電話の話になんだか自信がない奴。。。そもそも職種が違うんだから比べること自体間違ってるかもしれんのんだが。

今思うと、自分はこの時のその仕事を見下していたのかもしれない。



数か月後、会社の移転が決まった時点で信販会社から派遣契約の解除の通知を受けた。 


その日から1か月後には来なくていいって話だ。


また自分の将来を考えなくてはいけなくなった。



















と、俺の人生の雲行きかなり怪しくなってきたが。






















この時、世の中の雇用状況は大卒の時よりも幾分か時勢は良くなっていたと思う。

それか、自分の弱さを知って腰が低くなったことで、企業様からの印象も良くなったのだろうか。
その時勤めてた派遣会社の解除通知を受ける3ヶ月前ぐらいから、情報システム系に進むことを決めていた。海外にも行きたいという願望もあり、ダメ元でいいやとインドの大企業 インフォシスに応募した。1次試験は通過したが、その1週間後に血反吐を吐く程の肺炎にかかってしまい、面談キャンセルはもちろんのこと、2週間の入院になってしまった。
この入院についても、信販会社としてはイラネー人員なのかもなと。

解除の通知を受けてやや焦って受けた会社が次の雇われ先となった。






ベンチャー系システム会社 (約6年) - 正社員

そこは規模は小さいながらも、日米に拠点のあるグローバル企業だった。 (日米だけではグローバルって言えないかもしれないけど...)
従業員もその当時自分含めて4人しかいなくって、アメリカに行ってる社長と日本の従業員3人という構成。でも、身近に海外の接点があることはこの先にもいい刺激になった。

事務所では、受託した業務を細々とやること、IT製品のテスト検証を行うこと、あとは自分のITの知識を補う為のサーバー検証を行う場。Windows 2003 Server Enterprise Editionがその会社では検証できて、それにXPのクライアントをつなげて色々試してみた。
検証を行うと言っても、どこかの企業環境の計画的に作ったり、あるべき形がないので、五月雨式に色々やってみることが日々の練習だった。

あとは企業から来るテスト設計書(QE)の英文を読んでその通りやってみて、数十回繰り返して不具合が無いか探してみること。その時の師匠には、「単純作業だが、これをやらないと良い製品は出来ない」といわれたし、きちんとやるからこそ受注を受ける背景も教わった。
 
並行してMCP(Microsoft Certified Professional)のServer部門を独学で勉強して3ヶ月以内に取得することが会社からの指示だった。大企業で働いたことないし、サーバー・ネットワーク環境にろくに触れたこともないので、イメージしながらの環境構築しての学習の日々だった。
本当にこんな環境必要とされるんだろうか、というような質問する先がいなかった。師匠はだいたいアメリカに住んでいるので、アプリ系の日本人には聞いても分からない。Web上で検索して意味を繋ぎ合わせてわからない問題を理解していく。

MCPは連続落ちると2週間位受験できないので、7回受けてやっと合格した。その時のプロモーションで「1回受験して落ちてももう一回タダ受験」という設定に乗っかった。始めは会社費用であったものの、一回の受験費用が15000円はデカい。

合格してからは社外のプロジェクトに参加する日々が続いた。
未経験から学ばせてもらう姿勢と日々わかんないことだらけの内容をしがみついてでも覚えることは一社目で身についた。しかし、自分の作業があまりにも速く捌くことについては注意を受けた。あくまで品質がトップの優先順位であり、早く処理することはいいことではあるが、時間での見積もりをあげて予算をもらっているのだから。これは前職の頃の良い傾向が裏目に出た。
 
自分の姿勢は少なからず周りに認められた感はあった。ペーペーで何もできない作業員だったが、メンバーの作業を尊重することと自分が如何に大事な作業をしているかをよく感じながら仕事していたと思うあの頃。仕事もできるようになるといい加減な気持ちも出てきてミスや確認し無くなるもんね。

プロジェクト参加経験し、その1年後には社内サポートSEとして駐在SEで大手メーカーに配属されることになった。 そこの担当課長がまた曲者で、何でも間でも1から説明するめんどくさい人で、更には自己主張を徹底的に潰すという(営業的な潰しではなく、教え込むという面で)。いい人ではあるんだけど、仕事するうえではめんどくさい。

なんやかんやこの大手メーカーには4年間仕事させてもらった。社内SEから製品サポートSE、プリセールスSEなどその製品に関わる業務を一通りやらせてもらった。

4年目過ぎた頃からチームの体制が変わって、製品のバリエーションも増えたりしたのだが、所属元の会社の成長が止まったままで自分の貢献度合いに跳ね返ってこないのが続いた。むしろ自分の残業時間で会社に寄与している状況になっているようで、先が読めない不安に駆られた。良くも悪くも自分の将来を考え、転職活動を始めた。

 30手前でこのまま今のことを続けていくのもヤバいなというのが正直なところだ。
 プライベートでは家族持つ希望もあり、住宅も手に入れたい、仕事ではITのキャリアを続けて、できれば海外経験も積みたい、給与もあげたい。

この頃、リーマンショックが製造業はじめ、全世界の経済に大きな影響を与えた。
勤め先のメーカーでも縮小か事業閉鎖、そのメーカーでもどんどん人が減っていった。自分は解雇にはならなかったが、残されても正直人数と仕事の量がマッチしていない状況だ。

こんな状況でよく決まったなと今でも思うんだが、次の転職先が決まった。29歳でいきなり初海外勤務になった。